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キウチアニュアル2000・言葉と美術
夢創館(兵庫県) 2000年9月10日(日)〜10月15日(日)
「「絶対反対」「断固反対」」
「それは言わない約束(盲・イメージクラブ)」
「それは言わない約束(mad man)」
2000年神戸での個展は「言葉」をテーマとした展覧会。以前から使っていた「モザイク」と「放送禁止用語」等を用いた作品「それは言わない約束」等を中心に展開。以後、「ビエンナーレ」「トリエンナーレ」と続く3部作の始まりでもある。
また、クロージングパーティーを行い、参加者は画廊の庭でお酒を飲みながら、作家の搬出作業を見せる、というパフォーマンス(?)も行う。
人類の進化と調和をめざして!「キウチアニュアル2000〜言葉と美術〜」
このたびは、人類の進化と調和を合い言葉に、「キウチアニュアル」を開催する事となりました。
記念すべき第1回のテーマは「言葉と美術」です。そのテーマにふさわしい作家として、言葉を使った若手造形作家として知られる、木内貴志さん(京都市在住)を招待いたしました。
木内さんの作品は様々ですが、常に、「言葉」を強く意識された作品であり、一見すると駄洒落の様ですが、その実は笑うに笑えないものを内包した、問題提起であったり、ある種の告発であったりします。
今回、以前から彼が少し取り組んでいる「放送禁止用語」や「自主規制」の問題を扱った作品を出品していただきます。皆さん御存じの放送及び出版メディアにおける「言葉狩り」の問題。作者はその是非について、造形作家の立場からとらえ、自ら言葉に「モザイク」をかけることにより、その問題を皮肉りながら、事の本質をつき、なおかつ、美しいミニマルアートへと昇華させてくれます。
そして、今回の会場である、「夢創館」の名のとおり、素敵な夢を我々に見せてくれることでしょう。
最後に、開催にあたり、ご協力いただきました関係各位に対し厚く御礼申し上げます。
キウチアニュアル2000実行委員会
吐いた唾飲まんとけよ!「口は災い〜それは言わない約束〜」
このたびは、人類の退化と断絶を合い言葉に、「キウチアニュアル」を開催する事となりました。
記念すべき第1回であり最終回である今回のテーマは「口は災い」です。そのテーマにふさわしい男として、ゆうメイト(郵便局アルバイト)である、木内貴志さん(山科区生息)にスポットを当ててみました。
木内さんの作品は様々ですが、常に、「言葉」で説明できる「説明的美術」であり「口で言ったらわかるやん!」とつっこみを入れられる作品で、一見すると駄洒落の様ですが、その実はおやじギャグ並で、笑いたくても笑えなかったりします。
今回、以前から彼が少し取り組んでいる「放送禁止用語」や「自主規制」の問題を扱った作品を出品していただきます。皆さん御存じの放送及び出版メディアにおける「言葉狩り」の問題。作者はその是非について、フリーターの立場からとらえ、外側からチャチャを入れ、物議をかもす事で話題性を作ろうとし、事の本質など考えず、なおかつ、箸にも棒にもかからないような作品へと摺り替えます。そして、今回の会場である、「夢創館」の名に恥じる、悪夢と興醒めを我々に見せてくれることでしょう。
最後に、開催にあたり、木内貴志に一言申し上げます。
「吐いた唾飲まんとけよ!」
キウチアニュアル2000撲滅委員会
(2000年個展のパンフレット冒頭ご挨拶文より)
非弁証法的絵画
その昔、文通という伝達手段が盛んであったころは、それぞれ相手の肉筆文字や、文体、はたまた文脈などからペンフレンドの様態を想像し、未知の人との間にコミュニケーションを計っていた。今やその役割は、電子メール(e-mail)に取って代わり、いつ何時でも郵便配達のタイムラグを気にせず相手に情報を伝達できるようになった。言葉を文字化することによって、言葉ではなかなか伝えられない感情的な事や会話では伝わりにくい断片的な私情さえも、レトリックを用いてドラマチックに相手に伝えられることができる。文字、そうそれはかつての和歌で詠まれていたように、いにしえの時代から続いている心情の伝達方法なのである。
今展での木内貴志の作品は、言葉を文字化した作品がその大多数をしめている。
方法は様々で言葉として直接的なもの、フィルター(モザイク)がかかっているもの、あるいはビジュアルイメージが先行する広告媒体的な文字など。表現の自由という美術がもつ免罪符を受け取った彼は、そのままタブーという名の列車へと急ぐ。ひそやかながら大胆に計画していたかのように。
木内の作品に描かれた言葉はメッセージとして不可避的に私達に届く。それはまるでテレビから流れる放送のように視聴者の声を汲むことはできない。しかしそれが暴力的というわけではなく、例えるなら誰もいない部屋で電源が入ったままのテレビのような存在、つまり言葉の弁証法的対話を繰り返すのに必要な対象者が不在であるところが何とも興味深いのだ。現代のカリカチュアとは、いささか言い過ぎであろう。彼の作品にあらわれる直接的タブーは、彼の彼による彼のための実験である。つまり彼の思うタブーが社会の中でどれ程の存在と効力をもっているのか、タブーを用いてタブーの真価を検証しようとしているのだ。逆説的ではあるがその構図はそのまま、美術が社会に対してなせる役割、あるいは美術が社会に及ぼす影響力の構図でもあるといえるだろう。
個の作業に対し他人と別離化を目指しすぎるがために、時に彼の作品は意匠的に映る。しかしそれは客観的な視点であり彼にとっては個の作業を追及するだけのいたってシンプルな経緯である。時に人は、ある種の暗黙の了解を打ち破ろうとしたりアンタッチャブルに触れてみたくなる。はたして木内貴志のペンならぬ筆は、剣よりも強しなのであろうか。
古川誠
(2000年個展「キウチアニュアル2000言葉と美術」展パンフより、古川誠氏によるテキスト)